文学の嗜み

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西條奈加『心淋し川』様々な事情を抱え、江戸の一角にある古びた長屋に住む人々

西條奈加さんの短編集『心淋し川』(集英社, 2020年9月)は第164回(2020年下半期)直木賞受賞作です。時代小説の連作短編集であり、全六編が収められています。

 

作品の舞台は江戸の一角。根津権現近くの千駄木町の外れに長屋があります。そこに住む人々が、各編の主人公です。
西條奈加さんは、心町という架空の町を設定し、古びた長屋の住人を各編の主人公にしています。現在の千駄木町を編集者と訪れ、町並みや地形などを取材したときに、崖下のうらさびれた小さな集落のイメージが湧いたそうです。

心町には、まったりと淀む小さな川が流れています。どぶ川のようです。なぜか「心川(うらかわ)」という趣のある名前が付けられました。本当の名は「心淋し川(うらさびしがわ)」で、それを縮めているのです。町の名もそこから。そして心川の水の出所は、実は崖の上の大名屋敷です。

江戸の一角にある、古びて立ち腐れたような長屋。そこに人々が来るまでの経緯と、各編の主人公に置かれた人物の境遇は様々でした。各編を一つひとつじっくりと味わうことができますし、全体的なまとまりもよく、連作短編集としての構成も申し分ない作品です。最後の一編を読み終えたときの読後感もよかったです。

西條奈加さんは1964年北海道生まれ。56歳での直木賞受賞でした。
初出は次のとおりですが、単行本化にあたり加筆・修正されています。

初出「小説すばる」
「心淋し川」2018年7月号
「閨仏」2018年10月号
「はじめましょ」2019年1月号
「冬虫夏草」2019年4月号
「明けぬ里」2019年7月号
「灰の男」2019年10月号、11月号
(巻末より引用)

一編目の「心淋し川」の主人公は19歳の「ちほ」。ちほは、心町を出たいと思いつつ、針仕事で実家の生計を助けています。両親には話していませんが、思い人がいます。

二編目の「閨仏」は、心町にある六兵衛長屋に住む四人の妾の話。一軒家ですが揶揄を込めてそう呼ばれています。そこは青物卸をしている大隅屋六兵衛の妾宅。そして、もっとも年嵩の「りき」が主人公。
妾宅の話ですが、六兵衛は人当たりがよく話し上手。四人の女性もわりと楽しげに暮らしているのが印象的でした。『源氏物語』の影響もあったという、西條奈加さんの話には少し驚きました。

三編目の「はじめましょ」の主人公「与吾蔵」は料理人。心町にも飯屋があり、与吾蔵はそこの二代目にあたります。慕っていた年上の料理人から引き継いだのです。
インタビュー記事によると、時代小説で食を書くことが非常に面倒であると、西條奈加さんは笑いながら話していたようです。考証しないといけないし、貧乏料理というのがとにかく華がなくて難しい、とのこと。

四編目の「冬虫夏草」は心町の長屋で、下半身不随になった息子の世話をする母親「吉」の話。親子関係の問題であり、現在の「8050問題」にも通じています。実は二人は、もとは薬種問屋のおかみさんとその息子。なぜ息子が大怪我をして下半身不随になったのかと、なぜこのような状況になったのかということも、心に残ります。

五編目の「明けぬ里」の主人公は「よう」。亭主と心町長屋で暮らしています。「よう」は根津の女郎上がり。そして主要な登場人物の、もう一人が「明里」。彼女もまた女郎上がり。二人の人生は、遊女のときの立場も、根津の遊郭を離れたあとの境遇とその後も、大きく異なるものでした。

最後の六編目「灰の男」の主人公は、心町の長屋の差配である茂十。茂十はそれまでの五編にもたびたび登場していた人物です。タイトルの「灰の男」は茂十にとって仇。また六編目「灰の男」を読むと、各編の主人公たちのその後を知ることもできます。