文学の嗜み

文学表現全体の総合的な研究

村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』世界を作り上げる大きな物語の、ごく微小な一部

 

村上春樹氏の著作『猫を棄てる 父親について語るとき』を読んだ。読みやすい文章で書かれているので、すらすらと一気に読み進めることができた。村上春樹氏はあとがきで、この文章で書きたかったことのひとつを挙げている。それは次のような内容だ。

戦争というものが一人の人間の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということ

あとがきのタイトルは「小さな歴史のかけら」。村上春樹氏は1949年1月生まれ。両親は戦争体験のある世代。父親は軍隊に召集され、戦地に赴いている。
ただ村上春樹氏は、メッセージのような書き方ではなく、歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語として、できるだけそのままの形で提示したかっただけ、と述べている。そして、かつてそばにいた猫たちの存在を付け加え、次のようなことも述べている。

かつて僕のそばにいた何匹かの猫たちが、その物語の流れを裏側からそっと支えてくれた

『猫を棄てる 父親について語るとき』はノンフィクション。亡き父親の戦争体験や父親との思い出、自身のルーツについて綴ったエッセイである。
エッセイには、村上春樹氏の文章とともに、13点の挿絵が描かれている。これらの挿絵は、台湾のイラストレーターである高妍氏が描いた。
単行本は、新書判サイズで、挿絵などを含めたページ数は104ページ。独立した一冊の小さな本として出版した理由について、あとがきに書いてある。

内容や、文章のトーンなどからして、僕の書いた他の文章と組み合わせるこがなかなかむずかしかったから

村上春樹氏は、前々から、亡き父親のことを、まとまったかたちで文章にしなくてはならないと、思っていたらしい。なかなか取りかかれなかったのは、どんな風に書き始めればよいのか、うまくつかめなかったからと述べている。だが、子供時代に父と一緒に猫を棄てに行ったことをふと思い出し、そこからはすらすらと自然に文章を書けたそうだ。また、あとがきの最後を、「文藝春秋」編集部から事実確認の援助を得たことに対する謝辞で締め括っている。

初出は月刊「文藝春秋」2019年6月号。本作は2019年の文藝春秋読者賞に選ばれた。文藝春秋読者賞は、選考顧問の立ち会いのもと、読者の投票結果を踏まえて、決定する。単行本の刊行は2020年4月。