文学の嗜み

文学表現全体の総合的な研究

村上春樹さんの世界観をインタビューや作品などを基に考える

目次

村上春樹という作家のおさらい

村上春樹氏は、日本だけでなく、国外でも人気が高く、世界に影響力を持つ作家のひとりとして評されています。村上春樹氏は、数多くの作品を執筆し、数多くの国内賞および国際賞を受賞しました。小説家であると同時に、文学翻訳家としても知られています。エッセイや紀行文なども数多く執筆されています。
翻訳のことについては、小説を書くより翻訳していたほうが楽しい、と過去に語ったこともあります(柴田元幸『翻訳教室』新書館, 2006年3月)。

村上春樹氏は、地下鉄サリン事件に強い関心を持ち、被害者や関係者、そして元信者へのインタビュー取材に基づく、ノンフィクション文学作品も執筆しました。『アンダーグラウンド』(講談社, 1997年3月)および『約束された場所で —— underground 2』(文藝春秋, 1998年11月)です。

日本人作家の村上春樹氏ですが、アメリカ文学に大きな影響を受けていることを、村上春樹氏自身が語っています。

村上春樹氏は、小説を書くときにいちばん役に立った言葉として、アメリカの小説家の、F・スコット・フィッツジェラルドが娘に宛てた手紙の一節を挙げています。

「人と違うことを語りたかったら人と違う言葉を使え」

村上春樹氏は、東京大学文学部の特別講座の中で、この一節を挙げ、プロになるにはそれはすごく大事なことです、と付け加えました。

アメリカ文学が、村上春樹氏の創作活動に影響を与えていることは確かでしょう。十代の頃の村上春樹氏は、アメリカ文化やハードボイルドの探偵小説などに没頭していたとのこと。

30歳で作家デビューを果たしますが、それ以前に、日本の作家の小説を手に取ったことがほとんどなかったそうです。このことは、村上春樹氏の紀行文的なエッセイ『やがて哀しき外国語』(講談社, 1994年2月)のあとがきにも書かれています。

ただ、十代の頃、大江健三郎氏のファンだったことや、近代日本の文豪らの作品も読んでいたことなどを、語っています。たとえば、夏目漱石や谷崎潤一郎、芥川龍之介、佐藤春夫らの名前を挙げています。

作家になってからは、1991年にアメリカのプリンストン大学から客員研究員として招かれ、翌年には客員講師に就任し、現代日本文学の講義を受け持ちました。

村上春樹氏の文学研究的なノンフィクション作品『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋, 1997年10月)もまた、戦後の日本人作家六人の小説を扱っています。

村上春樹氏は、1949年に京都府京都市伏見区で生まれ、兵庫県西宮市および芦屋市で育ちました。両親とも国語教師であり、本好きの親の影響で読書家に育ちます。ただし子どもの頃、父親から『枕草子』や『平家物語』、『徒然草』などの古典を読まされ、両親の日本文学に関する話にうんざりしていたとのこと。そのためなのか、欧米翻訳文学に傾倒します。

最終学歴は、早稲田大学第一文学部映画演劇科。映画脚本家を目指していた時期があった模様。大学在学中の1974年にジャズ喫茶を開業。1978年、プロ野球観戦中に小説を書くことを思い立ち、翌年には『風の歌を聴け』で第22回群像新人文学賞を受賞しました。

この頃からアメリカ文学からの影響を指摘されています。

『風の歌を聴け』といえば、タイプライターのエピソードが知られています。その前提として、次のようなことを語っています。

ヘミングウェイがタイプライターを持って、戦争で砲弾が飛びかう中で記事を書いていたというのを読んで、羨ましいな、と思っていました。

当時、日本語のタイプライターはありませんでした。それで、なんとかタイプライターで書きたかったので、最初はブラザーの英文タイプライターを使い、英文で書いたが、難しかったので途中でやめたそうです。

朝日新聞「平成の30冊」を発表、1位は村上春樹氏の長編小説『1Q84』

村上春樹氏の長編小説『1Q84』は、2009年5月から2010年4月にかけて、新潮社から発売された長編小説です。単行本はBOOK1、BOOK2、BOOK3の全3巻からなり、BOOK1とBOOK2は2009年に、BOOK3は2010年に発売されました。文庫本では、BOOK1、BOOK2、BOOK3の各巻が前編と後編に分かれるため、全6冊になります。

『1Q84』は村上春樹氏の代表作の一つであり、朝日新聞が識者へのアンケートで選んだ「平成の30冊」では第1位でした。

「好書好日」は、朝日新聞社が運営する本のサイトです。

2009年にYOMIURI ONLILEの「本よみうり堂」に掲載されたインタビュー記事

YOMIURI ONLILE(読売新聞)の本の情報コーナー「本よみうり堂」に、村上春樹氏へのインタビュー記事が掲載されたことがありました。

2009年6月16日に掲載された記事です。

村上春樹氏は、『1Q84』の執筆動機や背景として、次の2つを挙げています。

一つは、故・ジョージ・オーウェル氏の近未来小説『1984年』。この小説を土台に、近過去の小説を書きたいと考えていたそうです。1945年に刊行されたジョージ・オーウェル氏の『1984年』は近未来小説でしたが、村上春樹氏の『1Q84』は近過去の小説ということになります。

もう一つは、1995年に起きた地下鉄サリン事件。村上春樹氏は、地下鉄サリン事件の取材をまとめた2つのノンフィクション文学作品を執筆しています。被害者やその関係者へのインタビューをまとめた『アンダーグラウンド』(講談社, 1997年3月)。そして、元信者8人へのインタビューなどをまとめた『約束された場所で―underground 2』(文藝春秋, 1998年11月)。村上春樹氏は、その後も裁判の傍聴を続けていました。村上春樹氏は、事件への憤りはあっても、基本的に死刑制度には反対の立場です。

村上春樹氏へのインタビュー記事を一部抜粋すると、次のようなことを述べています。

自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。それがこの物語の出発点になった。

2011年にニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載された村上春樹氏へのインタビュー記事

ニューヨーク・タイムズ・マガジン(英語版)のウェブサイトに、「村上春樹の猛烈な想像力」というタイトルの、興味深い記事を見つけました。この記事は、アメリカ人評論家サム・アンダーソン氏が、日本を訪れて村上春樹氏に単独インタビューをしたときの記事です。

ニューヨーク・タイムズ・マガジンのウェブサイトに掲載されたのは2011年10月21日。こちらの記事も少し古い記事ですが、長編小説『1Q84』に関することが書かれています。

村上春樹氏は、サム・アンダーソン氏のインタビューで次のようなことを述べています。『1Q84』は、短編集『カンガルー日和』所収の、自身の小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」から派生した物語であると。

基本的には同じです。男の子と女の子が出会い、離れ離れになります。彼らは、大人になってからお互いを探し始めます。単純な物語です。ただ長くしただけです。

それから、次のようなことも述べています。

1Q84のタイトルは冗談です。洒落のかかっているオーウェルのリファレンスです。

これは、『1984年』(Nineteen Eighty-Four)というタイトルの、イギリス人作家ジョージ・オーウェル氏が書いた小説のことを指しています。ジョージ・オーウェル氏の『1984年』は、1949年に刊行された、ディストピアの世界を描いた作品です。

他にも、サム・アンダーソン氏のインタビューで、村上春樹氏は次のようなことを述べています。

ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで、半分フィクションライターです。私は100%フィクション作家です。私はメッセージを書きたくない。いい話を書きたいのです。私は、誰にも政治的メッセージを述べていません。

ただし村上春樹氏は、2009年エルサレム賞の授賞式で、パレスチナとイスラエルの問題を語ったことがありました。これについてはサム・アンダーソン氏も、インタビュー記事の中で指摘しています。村上春樹氏は、授賞式のスピーチで、パレスチナとイスラエルを、卵と壁に喩えました。

また、村上春樹氏は、2011年6月のカタルーニャ国際賞の授賞スピーチでも、注目されました。カタルーニャ国際賞は、スペイン北東部のカタルーニャ自治州政府が、人文科学分野の功績者に送る賞です。この時の授賞スピーチで村上春樹氏は、「非現実的な夢想家として」という題のスピーチをしました。スピーチでは、日本は東日本大震災からの復興に向けて立ち上がっていかなければならない、と強調しながら次のようなことを述べています。

第二次世界大戦では広島と長崎に原爆を投下され、今回は自らの手で過ちを犯した、という内容のことです。村上春樹氏は、福島第1原子力発電所の事故を、日本にとって2度目の大きな核の被害とし、今回は自らの手で過ちを犯したと、厳しい見方を示しました(「核へのノー貫くべきだった」 村上春樹氏がスピーチ カタルーニャ国際賞授賞式 | 日本経済新聞)。

サム・アンダーソン氏が、このカタルーニャ国際賞授賞式での授賞スピーチについて触れると、村上春樹氏は次のように述べたそうです。

私は99%がフィクション作家で、1%が市民です。

本記事で触れたり参考にしたりした書籍

『翻訳教室』柴田元幸, 新書館, 2006年3月
『やがて哀しき外国語』村上春樹, 講談社, 1994年2月
『若い読者のための短編小説案内』村上春樹, 文藝春秋, 1997年10月