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誉田哲也『背中の蜘蛛』国家による監視社会を題材にした警察小説

背中の蜘蛛

誉田哲也さんの長編小説『背中の蜘蛛』(双葉社, 2019年10月)は、第162回直木三十五賞の候補作。誉田哲也さんにとっては、初の直木賞ノミネートであった。

ちなみに第162回直木賞受賞作は、川越宗一さんの『熱源』(文藝春秋, 2019年8月)である。

本作は、国家による監視社会を題材にした警察小説であった。

誉田哲也さんの代表作に、『ストロベリーナイト』をはじめとする、「姫川玲子シリーズ」がある。
「姫川玲子シリーズ」では、個性的で魅力的な現場の刑事たちが、残虐で難解な事件を解決するために奔走する。
『背中の蜘蛛』も警察小説であるが、雰囲気は少し異なっていた。

誉田哲也さんの警察小説は、いろいろな情報を得られところが魅力的で面白い。本作においても、同様であった。

誉田哲也さんの作品には、残虐な描写や嫌悪をかきたてる場面がある。だが、凶悪犯罪が何故起きたのかと、事件の真相を推理することにのめり込めるので、小説として面白い。

本作の直木賞選評では、ある場面について、物語に必要なのかという意見があった。
これは、第三者の悪意と強制による近親相姦の場面についてである。二人の女性選考委員から、不評を買ったようだ。必要なのかと疑問を覚えた、嫌悪をかきたてるのも小説だとしても不快になった、というようなコメントがあった。

殺人描写に関しては、第165回直木賞を受けた、佐藤究さんの『テスカトリポカ』(角川書店, 2021年2月)の方が残虐であったし、殺人場面が描かれる回数も多かった。
第162回と第165回の直木賞選考委員は、9名のうち8名が同じ方である。

『背中の蜘蛛』では、二つの事件が起こる。東京・西池袋での刺殺事件と東京・新木場での爆殺傷事件である。いずれの事件でも捜査は難航するが、「あること」がきっかけとなり急展開し、容疑者が浮かぶ。

「あること」は、「タレコミ」とされているが、では「ネタ元」はどこの誰なのか。本作では、この部分が大きな軸となっていた。

最新の情報通信技術を巧妙に利用した犯罪。それに対応するためには、警察側の捜査にも、高度な技術が求められる。本作は、事件の真相が解き明かされるとともに、新しい時代の捜査や国家のあり方に疑問をなげかける小説であった。

情報通信技術を活用した監視システムは、犯罪の捜査と防止に役立つ。だが、人権やプライバシーを侵害されることに抵抗を感じる方は多い。本作において、登場人物の視点を通して議論されていた。

直木賞の選考委員から、作者の影があまりにも見えすぎてしまう、という意見があったが、これらも含まれるのだろうか。
関連して、他の選考委員から、視点者のキャラクターと世界観が似ていると、わかりづらさの原因になるという指摘もあった。同じ選考委員から、登場人物が混雑していて、メインストーリーの求心力が失われがち、との意見もあった。ドラマと違い、小説としてはわかりづらいとのこと。

本書の巻末、著者紹介欄に記されている通り、誉田哲也さんは人物それぞれの視点から物語を構築する。本作も、その手法で書かれていた。
そういった力量が評価され、人物造形なども読者を惹きつけることが多い。

直木賞の選考委員の一人から、捜査員の個性が感じられ、人が生きていたという、評価があった。他の候補作に比べて読みやすかったとも。
逆に、女性の登場人物がステレオタイプで寂しく感じたという意見があった。

難しい問題である。

表現に関する部分では、説明のまま終わっている箇所があるので、表現として工夫してほしい、という意見があった。

本作は、「第一部 裏切りの日」「第二部 顔のない目」「第三部 蜘蛛の背中」の三部構成である。
分量は、「第一部 裏切りの日」がp.5からp.62まで、「第二部 顔のない目」がp.63からp.134まで、「第三部 蜘蛛の背中」がp.135からp.454までである。
3分の2以上を第三部に充てている。
表題が「背中の蜘蛛」で、第三部が「蜘蛛の背中」。監視システムの名称と情報通信技術の用語が関係しているようだ。

内容は、「第一部 裏切りの日」が西池袋刺殺事件について。
この時、本書における主要な警察官、本宮夏生は警視庁池袋署刑事課長であった。この事件の容疑者は、第一部で逮捕される。

「第二部 顔のない目」は新木場爆殺傷事件について。
第二部の冒頭から二人の刑事が登場する。一人は、警視庁本部の組織犯罪対策部所属の植木範和警部補。
もう一人は、高井戸署刑事組織犯罪対策課所属の佐古允之巡査部長。
二人は違法薬物の売人の捜査のため張り込みをしていた。
新木場での爆殺傷事件が起こるのはもう少しあと。爆殺傷事件の被疑者は、第二部で身柄を確保される。

この事件が起きたとき、本宮夏生は警視庁捜査一課の管理官。事実上、新木場爆殺傷事件特別捜査本部の最高責任者である。第二部は、本宮夏生が植木範和に声を掛ける場面で終わる。

「第三部 蜘蛛の背中」では、警視庁総務部情報管理課運用第三係長、上山章宏が登場する。
本作では、この部署の存在が大きな軸になっている。
上山章宏は本宮夏生の後輩であり、つき合いが長い。
この二人が警察側の中心人物である。

運用第三係は、新設部署。警視庁の公式資料にも載っていない。副総監直属の部署で、トップは管理官。上山章宏の上司は、副総監と管理官の二人しかいない。

第三部では、前述の二つの事件に加えて、ダークウェブを介したと思われる、預金詐取事案が発生する。
第一部と第二部の事件において、難航していた捜査が、「あること」がきっかけとなり急展開した。これらの真相も明らかになる。

直木賞の選考では、小説が盛り上がってくるはずの、後半に対しての評価が低い。近親相姦の場面も終盤。
後半部分に作者の影が小説の作り手としてあまりにも見えすぎてしまうだとか、後半になると魅力は色褪せてしまったなど、選考委員からの厳しいコメントがあった。
事件の真相や犯人の動機などが、終盤に明らかになるが、上山章宏の部下、運用三係の統括主任、國見健次警部補の話が矮小という意見があった。

それから、現実として考えた場合の恐怖と、小説のリアリティとは違うと思う、との意見があった。
本作は、アメリカ合衆国連邦政府による個人情報監視の実態についての、元CIA職員エドワード・スノーデンさんの暴露を題材にしている。

この事についての意見である。

作中に、アメリカ政府が秘密裏に構築した国際的監視プログラムの存在についてと、アメリカ国家安全保障局 (NSA) や中央情報局 (CIA)の話が出てくる。24冊の参考文献の中には、エドワード・スノーデンさんの著作や、会見・告発などを元にした本も含まれている。

スパイ小説の題材だという意見もあったが、現代社会を舞台にしたエンタテイメント作品として顕彰されるべきという意見もあった。

このように、第162回直木賞の選考会では、辛口の評価もされ、受賞は逃した。
警察機構の話や、モチーフにしたエドワード・スノーデンさんの暴露など、興味深い内容であった。しかし、そういう目的であれば、ノンフィクションの暴露本を読んだほうがよいということになるだろう。

だが本作は、直木賞の候補にはなった。エンターテインメント作品として、誉田哲也さんが書く警察小説の魅力を味わえた。